音読について

昨晩、趣味で二次創作を書かせてもらっている場所の内輪向けに、ねとらじで放送をさせてもらいました。

小宵さんの放送からのバトンタッチという形でしたが、二年ぶりのねとらじ放送は純粋に楽しめました。一時、緊張で背中に汗が噴いていましたけれど。

ラジオ放送中に仲間内の作品の音読をした際、かつて恩師から聞かされた活動の話などと合わせ、思うところがありました。私の恩師は教員を定年退職した後に地元市内で読み聞かせの会を主催し、図書館などで子どもらを相手に活動をしています。

ちょうど松岡正剛氏の千夜千冊を巡回したときにウォルター・オング著『声の文化と文字の文化』(藤原書店)についての記事を目にしたことも影響したようです。なお千夜千冊は毎日覗く分には実に刺激的で、おすすめのコンテンツです。

私も恩師などの伝手を頼って、もしくは頼られて文筆活動を続けている身ですが(私は物書きであっても「小説家ではありません」。有名でもありません)、声を文字にするのも、文字を声にするのも、それぞれに違和感を伴います。なおここでは、声を文字にする場合は字幕や記録といった実利的な理由がほとんどのため、省略します。また私が問題にするのは感性の領域であって、随筆または小説などにかかる技術論ではないことを先ずは留意していただきたい。

文字を声にすること、即ち音読ですが、容易なものとそうでないものがあります。しかしどのような場合でも、多かれ少なかれ、音読時に頭の中をまさぐられるような感触を覚えることになります。これはものによって、余韻だとか示唆的だとか、もしかしたら頭に良いとか、そういった評価をされるものかもしれません。

大半の人は文化的な文章を意識して音読する機会を学生時代以降に持つことは滅多にありません。私もそうです。ですが、そういう環境の中にあって、文字を文字として認識するだけに留めず声に出すのは、自身の中にある感受性を刺激するように思えます。

耳で聞くのではない。喉で聞く、とでもいえる行為が音読の際には行われているようにも思えるのです。

余談ですが、イスラムの教典であるコーランクルアーン)はムハンマドの預言を記録したものです。そして信徒はこれを「座した状態で揺すりながら音読」し、内容を覚えます。他の宗教でも何かを読み上げる、または唱和するという行為が行われます。

宗教的な意義について踏み込むつもりはありませんが、音読という行為が自己に働きかけるのだという認識は、昔からあるようです。