聞きましたよ

常々困っていることに、耳が良いというのがある。

この良いというのは何も数キロ先で針が床に落ちる音が聞こえるとかいうのではなく、聴覚経由だと簡単に感動する。感涙さえする。

誰かが電話先と口論しているのを耳にしただけで不安になり、スーパーなどで親が子どもを叱っているだけでも動揺する。諭している場合はそうでもないし、私自身、子どもを怒るときもある。

私の父親は精神を患った時期があり、それ以降は悪い仲間と付き合うような具合だったのだが、彼らというのはとにかく大声を出す。壊れたメガホンの方がまだましで、同じ人間と思うだけで哀しくなる。酔っぱらって道路に寝転がり、その上喚き散らすのは当たり前で、自動車で歩道に突っ込んだりもする。人がいれば大惨事だが、そういうことは私の知る限りでは無かった。一方、警察や消防団を呼ぶなどの冷静な対応をすると酷く戸惑い、妻が親戚を呼べば萎縮し、離婚調停が始まれば泣き出す。事件を起こしたときに新聞社に掛け合って名前が出ないようにすると、酷く喜んだりもする。騒音そのものだったと言って良い。

それでも今では父親のことをそれなりに私は見直しているのである。彼のような人を理解できるのは、息子でもある私のような者しかいないとも思っている。自ら会いたいとは思わないまでも。

しかし、耳は前述の通りだ。

酒瓶とグラスが机ごとひっくり返る音は忘れられないし、借金の返済を迫る電話の音も忘れられない。単に借金を取り立てる側だというだけで人生を見下している小利口な犯罪者どもの声も忘れられない。彼らは既に社会的には殺してもらったのだが、私も心労から、高卒で勤めた当時の仕事を辞めた。携帯電話は今でも特別の用事が無い限りは持つ気がしない。人は反射的に生きて良い動物ではないように思う。

不思議なのは私の内側からわき上がる怨嗟の声よりも、外側から聞こえてくる雑音が余程に私を悩ませてきたことだった。そして私には、彼らを助ける気が無かった。それが酷く、哀しかった覚えがある。こうした出来事が大して珍しいことではないのだと心得ていたためだったのだろう。

誰かを助けられるようなことがあれば、良いのだが。