上越市・中心市街地活性化基本計画

今日付の朝刊によると、直江津市よりも高田市の申請を優先する形でまとめるとのこと。

でまあ、この中心市街地活性化計画ってのは、知ってる人は知っているし、知らない人は全然知らない、実に典型的な、内閣府主導の下に策定される形を採っています。わかりきったこととはいえ、世の中、利益に与れる人以外はわからないことが沢山あるのです。まあ、あまりそういう話はしたくないので、わからない人は「中心市街地活性化」をキーワードにするなどして、探してください。

じゃあ何の話をしたいのかというと、高田市と直江津市について。

もちろん、この二つはとっくに統廃合されて、現在の上越市になっているのですが……まあ簡単に説明すると、福島城から高田城に政治の中心が移ってからは、関やら軍道の事情で、橋らしい橋は高田側にだけかけられていたんです。港町に当たる直江津側はハブられた形になります。これが江戸時代中、ずっと変わらなかったんですね。しかもようやく出来た橋も、住民が自普請、つまりは自前で架けたんですよ(明治五年・荒川橋)。この間、二百年余り。

とはいえ、高度成長期なんてものも敗戦後にやったぐらいの日本、明治から百年もあれば二つの地域の差なんて無くなりそうなもんだろう、と思うところです。

が、今度は陸軍が高田に駐屯します。このときに全国的にも有名な夜桜が植えられたりと、そうしたことを象徴として、高田優先の整備がされていきます。蛇足ではありますが、第二次大戦中の外国人捕虜収容所は主に直江津に設置されています。

ただしさすがは港町、橋を架けるだけの力強さは健在で、直江津は工業地帯として確かな地位を確立し、戦後もそれは変わりませんでした。高田生まれの高田育ちの私からしてみると羨ましいぐらい、直江津の祭は派手で、賑わいます。

さて仔細は省くとして、現在はどうなのか。

実は今現在で最も発展しているのは、西の春日山から上越市役所、十八号線バイパスへと東に続く県道四三号線一帯だったりします。その象徴的な建造物としては、謙信公大橋が架けられました(二〇〇三年竣工)。この橋からバイパス側の一帯をアルカディアシティと命名、整備しており、つくづく頸城平野という所は荒川(現在の関川。昔は旧名通りの荒れる川だったそうで、橋を架けるのは相当に大変だったと思われる)を抜きに語れないようで。

その一方で旧国道一八号線一帯はチェーン展開店舗や企業を除いて商店は廃れ、県道六三号線一帯は反対によく繁盛され、時代の当事者としての感覚から言えば、旧高田市だの旧直江津市だのというものは不可思議なものに思えるのです。しかし一方、平成の大合併で新井・柿崎地区を含むようになった上越市は広範な地域に渡り、旧市街地へと意識が逆流するのも致し方ないとも思います。

結局の所、そこに至っての判断が市街地と同じく歳を召した方々という点こそが問題なのかもしれません。以上、批判的なのは確かですが、これはむしろ若い世代への言葉と捉えていただきたく思います。