チャットウォークライズ

口で言って面白いことも筆記してみるとそうでもない、なんてことはよくある。

口述を書き留めるのは非常につまらないが、詩吟の底本を読むのはやり甲斐があったりする。ただし前者の場合は集中さえしていれば覚えられるが、後者だと手間と時間を惜しんだ場合は全く覚えられない。書いて覚えるのと口に出して覚えるのとでは、使っている頭の部分も違うのだろう。

少し話が逸れるが、仕事で参考資料などを読む場合、読みづらいもの(古文や文章上の手落ち、独特の言い回しなどなど)は口に出すようにしている。すると、すらすら読める。それから要点を書き写すと上手くいく、という仕掛け。古文の場合これは特に顕著で、日本は詩の文化なのだなあ、とつくづく思わされる。個人的には維新前後の頃に役人が書いたものが適度に読みやすく感じられる。この時期には各地域で一斉に記録が取られている場合が多く、資料を時代ごとに遡る場合、目にする機会も多い。

さても、なんだかんだで、書くよりは口に出す方が人間は多いから、楽しみ方も何とはなしに知っているのだろう。書いているのはストレスになるのに、人と話すのはストレス発散になったりする。しかし、これだけblogの類が流行る辺り、書くのも楽しくなるらしい。あるいは講義や仕事、勉強などと違って、積極的に楽しもうとするからなのだろうか。

では、チャットや掲示板などはどう捉えたら良いのだろう(以降、チャットとだけ書いた場合は筆記のみのものを指します)。対面で顔を合わせた状態で筆記を用いて話を成立させるのは打ち合わせや会議ぐらいなもので、その会議にしたって要所要所では言葉を用いている。チャットでも掲示板でも本来なら「喋りたい」はずで、スカイプなどが一挙に普及した(しかけた)のも、こうしたことを考える上で無視できない。

多分だが、ネットでチャットをまったく経験してない人などがスカイプなどのサービスを使った場合、チャットを楽しもうという精神は育まれないのではないか。そうした経験をお持ちの方がいたら、是非教えてもらいたいと思います。参考までに、私はチャットからネットに入ったようなもので、「チャットができるなら、別にボイスチャットはいらない」と考えるタイプです。

掲示板の場合、ボイスデータを扱うことはまず無いから、その点でチャットよりも話は簡単だと思う。不便だからこそ楽しみを見出している。「ネットならではのコミュニケーション」みたいな感覚も少なからずあると思う。

果たしてこうした行為は、ただ筆記したり口述したりするのと比べて、どんな差を人間にもたらすのか。一応「内省的コミュニケーション」とでもいえる点は見出せるのだが、まだはっきりとは言えないでいる。かといって、このある種歪なやり取りの仕方が、いつまで続けられるのかもわからない。今となっては、チャットすらネットで数あるサービスの内の一つでしかない。

そうした中で、どこまで人と分かり合えるものか。努めて意識したい。