簡潔三国志

詳しくない知り合いから「簡単に説明してみるとどうなるのか」と言われたので、極力脇道に逸れず、ざっとした流れにしてみた。

///三国志///

中国は秦の後、前漢の後の後漢という時代のこと。朝廷は腐敗し、反乱と天災は止まず、誰かが新たな時代を切り開かなければならないとき。

諸葛亮【ショカツリョウ】という人が、長年苦労ばかりしてきた劉備リュウビ】という人に請われ、策を授けた。

「天下を三つに分け、情勢を見守りながら力を蓄え、最終的に統一するのです」

これを世に、天下三分の計と呼ぶ。

それより数十年も前のこと。曹操【ソウソウ】という人は若い頃に自分の人相を見てもらった。この時代、人相見の結果は、自分を売り込む上で重要なことだったからだ。そして、こう告げられた。

「君は平和な時代なら優秀なだけの人だが、乱世なら一大の人物だ」

乱世の足音はもうすぐそこまで聞こえていた。程なく、曹操はめきめきと頭角を現していった。

前後して、孫堅【ソンケン】という人は己の武勇を頼みに、こう言って足場を固めた。

「私は孫子の子孫だ」

彼は志半ばで倒れたが、息子の孫策【ソンサク】が覇業を継いだ。そしてまた、孫策の死後には、弟の孫権【ソンケン】に継がれるのだった。

こうして、人の和、天の時、地の利をそれぞれが味方につけ、各々は天下を三分していくことになる。

天下三分の計は、赤壁の戦いという一大決戦に、劉備孫権の協力によって負けた曹操が体勢を整え直す間に、劉備が蜀【ショク】という国を作り上げた結果、実現した。しかしその後は、より機敏に立ち回った曹操の国、魏【ギ】が強大となり、蜀を脅かすこととなる。

蜀は孫権の国、呉【ゴ】と協力したが、赤壁のように上手くいくことは無かった。それどころか、二国間の争いによって、劉備などの主要な人物が死んでいくこととなる。彼よりずっと若かった諸葛亮は壮年期を迎えており、劉備の子である劉禅リュウゼン】を盛り立てようと、気を吐き続けるのだった。

魏は、諸葛亮と渡り合った名将である司馬懿【シバイ】による政変などはあったが、曹操の血脈は今しばらくは保たれていた。先に命脈が尽きたのは蜀だった。劉備諸葛亮も亡き後の蜀は、やがて魏の侵攻によって滅びた。ここに、天下三分の計は終わる。

孫権はこの間に呉の国力を蓄え続けていたが、老齢による彼の不明や、子や孫の代の暴政により、疲弊していった。

司馬懿の政変後に彼の息子らは地盤を固め、最終的に晋【シン】を建国することとなる。その晋によって、呉は腐敗の果てにとどめを刺されたのだった。こうして天下は統一された。

こうして中国が幾度となく王朝を交替させていったのは、教科書にある通りである。