一を知り、十を知り、士と作る

春陽館という書店がある。この書店、専ら旦那と奥方の二人で切り盛りされている小さな店構えなのだが、上越一どころか、近隣で随一の書店だと私は思っている。

高田の駅前から出てまっすぐ行くと交わる場所に、本町商店街がある。そこから北に折れれば幸町であり、南に折れると順に、本町四丁目、三丁目、そして二丁目といった具合に、本町通りを遡っていくことができる。今でこそ現代建築によって雁木通りが作り直されているが、私が小学生だった頃、平成の頭辺りまでは、いわゆる有名な雁木通りらしい雁木通りだった。今では仲町や大手町、直江津駅前に現存しているだけとなっている。

さて、そんな場所に春陽館は店を構えているのだが、いつ頃からあるのかは、私も知らない。話が逸れるが、どうもお袋によると「古本屋ならば(その裏に当たる)仲町にもあって、私が高校の頃には友達がそこで下宿していた」とのことで、ざっと四十五年も前の話だが、その古本屋はまだある。

高田藩は本所が現在の高田公園の傍にあって、お堀を隔てて武家屋敷が点在していたという。今の市街地(本町及び大手町一帯)はちょうど藩士らから門下生を取る塾があった辺りだとかで、学問が盛んだった。詳しくは郷土資料などによるが、藩校であった修道館(の講堂他)、文武済美堂などが名を残す。済美堂の人で最も有名なのは前島密だろうか。

さても、そうした背景が影響したのかどうかは定かではないが、春陽館の旦那は元気である。

私はただの客に過ぎないのだが、そうした側から見ると旦那は物静かというか、悪く取れば偏屈そうですらあるのだが、声をかけると、五倍ぐらいの元気な声が返ってくる。十年前、学生時代にはあまり意識しなかったが、あの元気さは凄い。久々に本を買いにいって、面食らうほどだった。

よくよく思い出してみたら、私が学生時代だった頃からはどうしたことか旦那よりも奥方や店員に会計や注文をしてもらうことが多く、旦那は後ろの方で片付けものをしていた覚えがある。

長らく、まだこの店があるものかと思っていたのだが、大した根拠もないのに声で納得させられてしまった気がする。

前置きが長くなったが、一応の目的として、この記事は「宮城谷三国志(文庫)を既刊分二巻だけ買ってきたので読み始めるから、ここに日付を残しておく」ためのものだ。

三国志 第一巻 (文春文庫)

三国志 第一巻 (文春文庫)

三国志 第二巻 (文春文庫)

三国志 第二巻 (文春文庫)

ざっと百頁ほど読んでみたが、言われているようなネガティブさはあまり覚えなかった。むしろ、「三国志という時代を書くなら外せない部分を書いている」ので、その分、物語性が薄れている。しかし決して、「正史にこだわるあまり面白くない」というような内容ではなく、知っている人物でも一挙手ごとに新鮮さを覚えられる。

これは宮城谷作品全般にいえることだが、例えばAという表題だった場合、そのAが人名でも時代でも、百年ほども前から話が始まる。鎌倉時代は源平の乱から語り始めなければならないようなものなのだが、これだと三国志が本来扱う範囲を逸した部分を扱っているため、不平が出やすい造りかもしれない。

不思議なことに、一般的な三国志(あえて演義だの正史だのと峻別せずに語るが)の始まり方に文句を言う人をあまり聞かない。つまりは劉備関羽、そして張飛の桃園の誓いや黄巾の乱の辺りである。三国志とは義侠や栄枯盛衰を描いたものである、と考えれば劉備らの始まり方は妥当といえば妥当である。が、その時点で作品の幅は、狭まる。

いわゆる三国志を読んできた人間の種類なんてことまで語るつもりはないし、語れるものでもないのだろうが、三国志が本来許容できるはずの人らを排斥してきた側面はあったはずで、そう考えれば、既存の三国志読者が不平を述べるのは、褒め言葉に転じることになるかもしれない。無論、面白さが持続してこそ、ではある。

そうした諸々をひっくるめて、楽しめそうな予感は、ある。

2009-03-03追記。第二巻まで読了。一貫して宦官と外戚に注視し、その間に翻弄される歴代皇帝、結果として何もできないままでいる清流派の矛盾点などを描いている。そうした中から自然と黄巾の乱へと繋がる背景に導かれるわけだが、今のところ、どこまで意識されて書かれているものか、判断し辛い。しかし官僚については異常なまでによく書かれ、推察されていることから、儒者的な思想がどこまで民衆の実際を反映できていたか、応えられていたかを訴えているように思われる。そしていよいよ、董卓が表舞台に出てくる。