新潟地震から45年

お袋曰く、45年前の新潟地震は凄まじかった……そうなのだが、この感慨深い台詞も実際は「三和村(現上越市三和区)なんて僻地の子どもにでもその凄まじさがわかった」という意味になる。

うちのお袋はその頃の女性にしては高校まで上げてもらえた人で、綿問屋だかで一代を築いた爺さん共々、身内の私からしてみても面白い人である。

このお袋、私と二人きりになると別れた旦那の話になるという、情操教育とか丸投げしている人なのだが、そもそも私も気にする歳でもない。ただ、三歳だかの頃からサスペンスドラマを見せていた点はどうなのだろう。

さて、そんな剣呑さを孕む為人のお袋の、胡乱な記憶にがっちり食い込むことになった新潟地震であるが、一番有名なのは火災の凄まじさだ、と教科書などにも記載されている。手元にある資料だと、約160戸が全焼となっていて、阪神・淡路大震災における焼損約7000棟という恐ろしい数とは一概に比べられないのだが、まだ宅地開発などというものが本格的に行われていなかった当時の被災地域の住宅事情を考えると、ほとんど阿鼻叫喚の火焔地獄だったと言って良いらしい(港湾部でのコンビナート火災の延焼によるとされる。焼失面積は約5.7haとされる)。これについては当時の被災者の方々の教えにより、つくづく感謝したい。興味深いというには失礼かもしれないのだけれど、新潟大火の経験者も中には含まれているはずで、その人たちをも恐怖させていることを頭に留めておきたい。

余談になるが、兵庫のケースは大規模であるが故に、組織再編や防災対策などという普遍的な防災知識には有用だが、細かい部分、中小自治体における避難・防災対策において再現性があるとはいえず、留意してもらいたいとは思う。むしろ福岡県西方沖地震能登半島沖地震などについてこそ、もっと一般の目が向いても良いだろう。これらの点においては、各防災組織の相互交流や講習以外になかなか日の目を見ていない。日常での分断こそが非常時の分断の原因となる。

新潟市というのはどうも災害に見舞われやすいようで、市街地における災害といった意味での教訓は数多い。あまり県庁所在地としての役目にばかり目を向けてはならないのではないのだろうか、と今日という日に思う。

なお、文中においては体裁よりも数字の読みやすさから、半角英数字を用いた。