代表とは?

shima_ko国母選手の問題もそうだけど、日本人は「代表」という言葉の捉え方が、特にスポーツの世界では、特殊なのかもしれないなあ
shima_koこれって戦没者とかの「誰かを代表した結果そうなった人たち」についての価値観にも通じているように昔から思っている
shima_koよく「日本を背負って世界に行く」というが、実際は少し違うと思うんだ。「日本に代わって、人が日本という形を伴って世界に行く」と捉えているんじゃないか
shima_koつまり、代表とかじゃなく、もう日本そのものなんじゃないか。日本人にとっての「代表」は
shima_koこれは日本人が狭量というのではなく、それだけ人間の在り方の範囲が広いのだと思う。真面目に考えたら、一人の人間が全く国そのものと同価値になれるわけはないのだが、日本人はそう見てとれるのではないだろうか
shima_koただ、それに気付いていないで、「それが当然」となっていることに、問題の溝が深いことに通じる部分があるのではないか
shima_ko考えてみると、代表、というだけで、その分野のことに詳しくなくても、のめり込めるのは、日本人だけではない。ただ、日本の場合、これは愛国心とは別個のように思う。あらゆるものに日本的な部分を見出そうとする部分があるように感じる
shima_koというか、下手したら、日本的なものにすら限定されず、○○的なものを○○とみなす傾向があるのではないか。ラーメンは中華だし、ナポリタンはイタリアン、だけどサラダ巻きお前は駄目だ、と
shima_koだから、もしかしたら、「国母問題で彼を責めている人はもっとスポーツの世界のことを知ってほしい」というアプローチは、徒労に終わってしまうのではないだろうか? もっと効果的な働きかけはあるのではないか?
shima_ko国母選手がスノーボード選手だろうと相撲取りだろうと、代表であり自分の頭の中にある日本人のイメージと合致している時点で、彼は世界の日本人になってしまうのだ。これは恐ろしいことだ
shima_ko恐ろしいというのは、何も、いけない、という意味では無いので、あしからずなのですが、そうした観点を、どう明るい方向にもっていけばよいのだろうか?
shima_ko観点というより、見方だが、先ず、国母選手以外のスノーボード選手をもっと前面に出さないと駄目だろう。つまり、スポーツの世界ではなく、スポーツマンそのものを見せないといけない。日本人の代表、ではなく、日本人のスノーボード選手の代表、という風に無意識の段階で滑り込ませないとならない
shima_ko唇が滅びれば歯が寒い。国母選手に限らず、これからもこういうことはあるだろうから、もっと多くの人間を表に出して、啓蒙ではなく、見知ってもらうことから、始めないとならないのではないか。そんなことを考えさえられた