孔明は何になりたかったのだろう

先日の例大祭レポートの最後でも触れた岳飛氏と雅氏は、元々は私が中学時代に知り合った、歴史サークルの仲間に当たります。ここら辺の経緯などについては何度か昔の日記CGIなどで触れさせていただきました。

私の興味の対象は概ね、教皇ウルバヌスⅡ世の呼びかけから始まる一連の十字軍、及びアイユーブ朝からマムルーク朝等となっており、わりとイスラーム、シリア・エジプト圏に拠っています。

んが。

我が国で歴史好きなんてやっていると、戦国時代と中国の三国時代(もしくは春秋戦国時代)は避けて通れません。近頃では小説や漫画といったサブカルチャーに慣れ親しんだ人も増えてきました。まあ、戦国好きや三国志好きは歴史好きと必ずしもイコールではない、というのが実際なのでしょうけれど、ここら辺については語る気がありません。

さて、私のHNの由来が司馬懿仲達だ、というのはことある毎に言っているのですが(司馬遼太郎先生の由来、司馬遷と勘違いされる場面が多いため)、司馬懿についてはともかく、諸葛亮孔明について触れるのはとことん避けてきました。

何せ、諸葛亮は評価が難しい。彼には名宰相、名軍師、忠臣など様々な評価がありますが、能力以上に思想的な部分が評価に大きく影響します。逆に言うと、能力について疑っていては、一向に評価が定まりません。

そこにもってきて、北伐という一大事業の評価までかかってきます。いやいや、そもそもあれら諸処の軍事行動を北伐なんて一括りにしてしまうのは戦略全体を鑑みるに当たってどうなんだ、という疑問もあります。

どうしてこんな煩雑さを伴ってしまうかといえば、それだけ諸葛亮が傑物だったからでしょう。確かにケチをつけようと思えばいくらでもつけられます。究極的には「蜀漢なんていう負け組に属した時点で馬鹿」とかいう無茶な弁さえ、言おうと思えば言えます。もっとも、これは心が無い人の言うことだけれども。

そういった諸々の中で私が気になっているのは「司馬徽から見て、彼はどうだったんだろう」ということです。彼は「伏龍は主君を得たが時を得なかったなあ」みたいなことを言ったりもしていて、劉備に仕えた後の諸葛亮について、以前と同じ評価を下していたわけではないと思います。

もちろん「たった一つの言葉だけを取り上げるのか」とも思いますが、司馬徽にしてみたら教え子なわけで、劉備に仕える前後で評価が変わって当然、むしろ変わらない方がおかしいのではないでしょうか。

諸葛亮自身、変わっていったように思えます。正直、彼の初期の伝を見るに、忠義の士とは言い難いように思えます。ところが晩年の出師の表を読むと目頭が熱くなります。あそこまで切々と漢復興という事業に取り組む姿勢を表しています。とても以前の彼とは思えません。

大体からして若い頃の彼は、自分が行ったこともないような巴蜀の地を劉備に薦めるような頭でっかちです。三国鼎立の実現にかかる妥当性でいえば、孫呉魯粛の方が余程に(魯粛自体が化け物なのだけれど)優秀な考えを持っていたように思えます。とはいえ現に巴蜀を切り取る所まで行ったわけですから、大したものです。そこに至るまでの彼が最も、私には魅力的に映ります。

……では、いよいよ北伐について触れましょうか。

司馬懿、引いては曹魏側に思い入れがある私ですが、北伐における孔明の軍略は神がかっています。一般に最も成功に近かったとされる第一次よりも、曹魏軍の配置を見ては渭水他に軍隊を機敏に振り分け、司馬懿を翻弄するなどした点にこそ、孔明の戦術上の真価を見出せるように思えます。

司馬懿については実際の所「明帝によく応えた」ことこそが最大に評価される点だと思い、しかしこの「よく応えた」というのがとてつもない勢いで応えたという意味で、後に虐殺をしちゃったりもする司馬懿のやり過ぎっぷりが映えます。

これ以上語ると何だかんだで司馬懿側の話に移ってしまいそうなのでそろそろ締めますが、諸葛亮即ち蜀一代男だったのではないかというのが、妥当な落とし所なのではないでしょうか。

それが彼のなりたかったものなのかどうかは、想像するしかありません。若い頃の彼なら素直に喜んだかもしれませんね。