大人が大人しか相手をしない

子どもに関したことというのは、その誕生から、また不幸な死など、いずれもショッキングなことが多い。

人の死に差は無い、と言いたいところだけれども、無垢とされる子どもの死と、叩けば埃が出る大人の死では、より前者の方が哀しまれる。悼まれる。それは良くも悪くも子どもを守ろうとするからなのかもしれないが、容易に答えは出ない。

さて、子どもに関してのショッキングな事件があった。大阪府の道路用地接収にかかる強制執行がそれだ。

あれは子どもをあのような現場に出した時点で、保護者も悪い。「子どもは言ってもわからない」が決まり文句のように言われていたが(一部の落ち着いた意見はテレビやマスコミにおいてもちゃんと発言されていたことは、書いておく)、言ってわからせるのが大人の役目だ。それに年齢や利発さによって差は出るとはいえ、子どもは言えばわかる。わかった上で、それでも納得がいかなくて、泣く。憤る。そういう無垢さが子どもなのであって、自分たちの愚かさを子どもの能力に転嫁すべきではない。

この愚かさはもちろん、保護者の方々のものだけではない。大阪府の不手際も追及されて仕方の無い部分がある。大阪知事が無能とされるのは、役人として責任を追及されているのに自分たちの権利を主張し「こちらにはこちらの都合があった」と言うことで、それを言ったら役人は役人としておしまいである。役人の権利は強いからこそ、例え真実の裏返しのような追及だろうと、甘んじて受ける必要がある。こうした主張が府知事に限った話でないのは、残念でならない。

それまで取り上げなかったマスコミも悪いとする向きもあるかもしれない。無関心な地域の姿勢にも憤慨するのも、筋違いではない。だが用地が接収されても保護者は保護者であり続けるのだから、子どもに対してどのように説明し、大人としての責任を示すのか。それは保護者の仕事だ。人に任せられるものではない。子どもらを預かる用地の職員こそ、そこをよくわかっているべきではなかったのか。

正直なところ、子どもは無垢故に、残酷な所がある。例え親でも、大人として厳しく評価する。孝行の精神は自発的だからこそ美徳であって、基本的には子どもは親不孝である。自分たちを扱う大人のことを考えている。

果たして彼らが大人に下した評価は、どのように社会に反映されるのか。想像するだけで恐ろしいものがある。