三国志11PK:天の邪鬼な益州攻め

戦略ゲーのプレイ日記に触発されたので、一週間ほどかけてちーまちまとやってみました。

プレイ条件及び目標は、

  • 三顧の礼シナリオ(207年9月)
  • 漢中側から益州入り
  • 諸葛亮を確保するため、少なくとも208年1月から3月までの三顧の礼イベントをこなす必要がある。その間、新野を放棄できない
  • 巴蜀及び南蛮を制覇するまでを特に意識する

費イ辺りが聞いたら泣くか喚くかするだろう漢水遡上計画である。

これに先立ち永安側からの益州入りも試してみたが、以下の点で割に合わなかった。

  • 漢中側からと違って最初から広州の劉璋軍と接してしまう
  • 武将を大幅に割くために、上庸から漢中へと向かう際の進軍速度が鈍る。また相互の往き来にも時間がかかるため戦局に応じた人材配置ができない
  • 漢中へ向かうはずの劉璋軍が永安に向かう場合が多々あり、その分だけ漢中への圧力が減り、隙を突くことができない

一応の結果としては漢中も広州も獲りづらくなる、という最悪の展開になった。9と違って内政に時間がかかる11では、戦略に限界があるのだろう。漢中を狙わない場合は試していない。

さて、本番。

スタートして最初に問題となるのは、上庸へどれだけの兵力を割くかである。超級の場合、新野の初期状態は、

  • 兵力:16,000
  • 兵装:各2,000

今後も兵力自体が不足しがちなため、兵糧は超級ですら余りがちになる。よって、兵糧については触れない。なおこの他に新野の港には兵が2,000詰めており、槍も同数揃えてある。

輸送用に編成した部隊が、新野から漢水を遡上して上庸に辿り着くまで、大凡で一月半かかる。足りなくなったら持っていけば良い、とか考えていると、まず間に合わない。鉾先の鋭さも鈍る。

とにかく漢中さえ取ってしまえば後はどうとでもなり、これまで何度か新野プレイをした経験から、いざとなれば放棄も辞さないと割り切り、麋芳に兵8,000と武装全てを預け、更には金と兵糧も三分の二を割き、送り出した。なおこれ以上あちらにやってしまうと、諸葛亮を確保する時間すら稼げなくなる。

さて、ここからは新野の内政期間となる。普通ならば鍛冶でも最初に作りたいところだが、放棄前提なら金をひたすら蓄えておいた方が、後々便利だったりする。おまけにこちらには麋竺の特技『富豪』があり、金の収入が二倍になる。よって、市場を最優先で建てれば効果を最大限に発揮できる。それが一段落ついてから鍛冶と兵舎を建て、時間を稼げるだけ稼ぐための戦力を随時供給する方針が妥当だ。

ここから二ヶ月。上庸を制圧してからが本番である。

これまでに新野はそれなりの都市になっているが、隣接する許都には八万、エンには六万の曹操軍が控えている。この場合、CPUは年明けと同時に攻めてくるのがセオリーであるから心構えさえできていればいくらでも対処できる。最大の問題は別にある。徐庶の引き抜きイベントである。

この引き抜きイベント、徐庶が母親のことでいつもの明晰さが欠けているからか、論戦に持ち込めば劉備と同じ知力でやり合うことができる。んが、11の論戦は知力が互角の場合、勝率は六割をかろうじて超える程度。彼がいなくなると上庸との経営両立が厳しくなるため、今回は勝てるまでやることとした。なお一度だけ曹操軍と超級で真正面からやり合う戦略を採ったことがあったが、そのときは徐庶曹操に渡しても勝てた。そのプレイでは、華北まで押しやった曹操軍を覆滅したときに劉備は寿命で一生を終えるという、なかなか凄まじい展開となった。それだけ劉備軍の面子は強いのである。まあ、永安・上庸・新野の三方面に武将を分けるとさすがに無理だったが……。

さて、ここで配置した主要メンバーを書いておく。

新野で内政が一段落した時点で、政治に秀でた面子は麋竺を除いて上庸入りさせた。本当ならこのまま漢中に先発部隊を出したいぐらいだが、三顧の礼イベントが終わるまで劉備関羽張飛は留守にできないため、徴兵や探索などをさせている。

超級の場合、この三顧の礼イベントは曹操軍侵攻のタイミングと被るため、かなりぎりぎりとなる。早くて208年3月頭に諸葛亮が参じるが、このときには目前まで曹操軍が迫っているのが常である。ここで重要になってくるのが、先程のメンバーの中に◎が付いた二名である。

趙雲については触れるまでもなく優秀なのだが、劉邦は特技『槍将』を持ち、趙雲の副将に付ける形で出せば、例え寡兵でも、文官相手なら螺旋突きで無力化できる。許都に詰めているのは大体が文官なので、第一次攻勢には十中八九彼らが出て来る。関羽らが戦場に出られるまでの時間を稼ぐために、上記の二名を残してあるわけだ。

ここら辺の具体的な展開については、わかる方にはわかるし、興味無い方にはややこしいだけなので、結果だけ書く。

許都からの第一次攻勢、第二次攻勢を防いだ頃、エンからも敵が寄せ始める。最終的に徐南からも敵が来るとわかった段階で、新野の放棄を決行。内政で建てたもの全てを破壊してから、人材移動と輸送を駆使して、漢水を遡上。冬の到来までに上庸への集結が完了する。

これまでの一年は全て、漢中へ攻め入るためにあったと言って良い。防衛戦の最中、とっ捕まえた郭奕(郭嘉の息子)を切ってストレスを発散したりもしたが、ここからが劉備軍の怒濤の進撃である。

エン側から攻めてくる曹操軍のために、漢中入りを目指す部隊は厳選する必要がある。

まあ、これについてはあまり悩む必要が無い。確実に、かつ迅速に漢中を落とすなら、関羽張飛は外せないし、攻城兵器の威力は部隊人数にもろに比例するため、君主である劉備も行く方が良い。これに『工神』持ちの黄月英や、演義では馬鹿扱いの張飛孫乾を付けるなどして、全て合わせても武将が六名。諸葛先生や徐先生には留守を任せる。

諸葛先生は相手に『沈着』などの特技がある奴がいなければ必ず偽報を通すため、防衛戦では無双である。生きてる先生は仲達以外も走らせる。徐先生も若いときのやんちゃのイメージのおかげで武力が高く、得意な部隊適正も豊富。臨機応変に部隊編成を変える方が良い防衛戦では便利だ。

この頃、漢中は劉璋軍の圧力を一手に引き受けており、隘路を固める戦術で陥落こそしないものの、防衛以外には何もできない状況に陥っていた。劉備軍が目前に来るまで迎え撃つ気配すら見せなかったぐらいで、二ヶ月も経たない内に漢中は陥落。ここに五斗米道で身を興した張廬は滅びる。まあどうやっても滅びますけど。

ここで劉備と相性の良い西涼馬騰軍と同盟を締結しておいてから、防衛を続けつつ内政を進める。攻勢の合間を縫って剣閣などの要衝を落とし、巴蜀へと侵攻していく。

実はここから成都までの道筋は、かなり楽なものだった。記録が残っていないが、勘案してみても、二年はかかっていないはずである。

9ならばここから更に侵攻できたのだが、11では成都から南蛮までが本当に、まじで、とてつもなく遠い。いやまあ、遠くないはずがないってものだが、攻め入るだけの準備をするために内政をし、更には間断なく攻めてくる劉璋軍の相手をしている内に、あっという間に時間が流れた。広州を抑えて永安への備えもした。

この頃までに隙を突いてエンを諸葛先生他が落としており、曹操軍と一進一退。孫権も南郡に手を出してみたりしつつ兵力を充実。最も不遇なのは劉表の跡を継いだ劉綺、そのまた死後を継いだ劉宗である。劉備はさっさと新野を放棄したようなものだから、曹操軍の相手をする羽目に。これが不憫でエンを落としてやったようなものなのだが、結果としては漢水を抑える役目を担わせることができた。

217年、10月。劉備軍がいよいよ南蛮までを平定。前後して永安も攻め落とし、巴蜀から南蛮までの広大な土地を占有することとなった。

とまあ、本来なら漢中決戦を迎えていたであろう頃と時期が重なり、なかなか面白い結果を見ることができました。

一方、その頃! 益州攻めで命を落とすはずだったホウ統は!

捕まってました。

この人、いつの間にか劉宗軍で軍師なんてやってました(笑)。