小室哲哉、逮捕によせて

小室哲哉が捕まった。アメリカ大統領にかかる選挙に向けて大々的に報じられている中でのことであり、それだけにこの事件の衝撃度が顕著に出ている(一応の懸念として、他二名の容疑者の扱いが軽すぎる点を挙げておく)。

しかしこれについては司法の手に委ねられたわけで、後はもう彼個人の資質の話になる。一頻り振り返ったら、彼についてのみ語るのは止すようにしなければいけないように思う。

勢いの有無のある業界でのことだから、利益に群がる輩を一掃する、というような考え方も現実的ではない。もちろん発覚したなら話は別で、逐次、裁かれるべきではある。自浄作用の強化も常に念頭に置かれたい。

では問題にするべきこととは何か。司法の判断がどのように下されるかは当然の関心事として、小室サウンドの文化的影響の算定こそが肝要に思う。

「一過性のブームに過ぎなかった」というのは簡単で、小室容疑者の凋落や人間性に結びつけたがるものだが、それこそ一過性の話題にしようとする流れであり、建設的ではない。特に音楽業界自身から発せられる今回の件に関するメッセージには注意したい。音楽家は大概が「俺が、俺こそが」という部分があるから、他者を叩くときは徹底的に叩く。だからこその勢いある業界となっているとはいえ、冷静な意見を拾えるようになるまで、あまり意見を真に受けない方が良さそうだ。

私は特別、音楽に精通しているわけではないのだが、そのブームの(直撃とはいえないまでも)影響を受けた世代として、あの音楽はいったい何だったのか。音楽シーンへの影響は元より、広い範囲での興味の減退を抑えなくてはならない。ファン、関係者に限らず失望されている方もあろうが、そうした活動に神経が割かれることを願いたい。忘却したいだけなら、誰にでもできることだ。

最後に書いておくなら、こうした考えは「小室自体の価値は興味の外」であるとするもので、ある意味で残酷ではあると、我ながら感じる。