ここで平然と暮らす友人・先達を私は畏敬せざるをえない

今日、用事があって車で地元を周回するはめになった。上越から妙高高原の間辺りだから、折からの降雪の影響をもろに被った。そのとき同乗していた人に何枚か写真を撮ってもらったので、置く。


板倉近郊


妙高高原途上


同上

特に一枚目こそ、頸城の冬だと思っている。空から青を除くとこうなる。明るくはあっても光は無い。雪かきの半ば、見上げる度にこの空と向き合うことが、どれほど雪国の人間の精神に影響をもたらしてきたか。

地に足を、というが、雪国の人間にとっては空こそが現実だ。あるいは空とつるんだように顔色を似せている、積雪の光景だ。山岳だ。

子どもの頃はよく下を向いて歩いた。顔を上げて歩くと嫌でも雪の臭いが入ってくる。俯いたときに鼻に入るのは自分の身体に触れた後の空気で、幾分かマシだった。

雪の臭いは総じて、きつい。普通、臭いというのは慣れるはずのものなのに、あの臭いの嫌らしさは何故だか雪国以外の人にこそ通じがたい。水で濡れた靴裏の臭い。そう表現したくなる。しかし慣れはせずとも、我慢は覚えた。冬場に私が活発な所を見せるのは、発散したいからかもしれない。自分の臭いが混ざっていない雪の臭いは、堪えがたい。

以前、父のために精神的にも家計的にもどん底の状態になったことがあったが、その年の冬、私は雪山で死にかけた。山を渡るのが当たり前の大昔ならともかく、現代においては事故でもなんでもない。自分から雪山に入ったのだから、人の愚かさを責めている頃の自分というのも、相当に愚かなのだと思う。

そのとき見えたものといえば、空の全てが雪になったかのような景色に、申し訳程度に木が立っている姿だ。尾根を渡ろうと気付いたときには、もうそういう状況になっていた。魔が差したのだろう。とりあえず斜面の陰に入って、煙草に火を点けた(いわゆる地元の山とはいえ本来ならしてはいけないことで、これを機に誰にというわけでもなく、謝罪したい)。

二本ばかし吸って平静を装ってみたが、煙草の煙よりよっぽど雪の臭いの方が毒に思えた。鼻を抜ける冷気は頭を揺さぶるし、目はちかちかする。あのときに頭の神経が何本か焼き切れているような気がする。結局、夜になって天候が落ち着いた結果、騒ぎになる前に二本の足で帰ってこられたのだが、もっと高い山だったら下りてくる体力があったかどうか怪しいものだ。

あれほど激烈な環境に自分は身を投げ出せるのだと思うと逆に雪国での暮らしが嫌でなくなっていったのだから、若い頃なんてのは勝手なものだと思う。

近頃では、雪が降ってこそ安心してさえいる。年々、めまぐるしく変化している雪国の気候こそ、私には良い勉強になるのだと思う。